兵庫県臨床心理士の真摯で暖かさをイメージした画像

TOP >会長メッセージ

会長メッセージ

ダブル資格者はどこに存在できるか?

兵庫県臨床心理士会 会長  羽下 大信

公認心理師の合格発表がありました。受験した人、しなかった人、合格した人、不合格だった人。今後は、合格したのですぐに、あるいは1年くらい様子を見てから登録を、と考えている人と、人それぞれの感慨や目論見に応じてのアクションが始まるのでしょう。

公認心理師試験の講習会Gパターン経由での受験者のパーセンテージが、全受験者の70〜80%(公式データはないので)というところから推測するに、合格者27,876人(北海道の受験者を除く)の7〜8割、つまり、おおむね18,000〜20,000人、兵庫県では900人あまりの人が臨床心理士と推測されます。

この方たちは、自覚的にはダブル資格(先般のアンケート結果によると兵庫県臨床心理士会では、会員の4割くらい)ということになるようです。ただ、来年4月以降に登録が済めば、特に雇用する側、医療・福祉・教育機関から見れば公認心理師として扱われ、「公認心理師法」という法令の規定に則って行動することが求められます。

では、これまでの臨床心理士としての行動(規範)と、どこが、また何が違うことになるのか。それは、上記の法令に規定された「医師・校長の指示」に従う、という点でしょう。学校場面では、新たに(対人援助職ではないメンバーも含まれることになる)「チーム学校」を主導するという点で、より強化された「校長の指示」、つまり業務命令に従い、医療福祉領域では、医師や直属上司の命令に従うことになります。

したがって、あえて両者の違いを際立たせて言うなら(私見ですが)、これまでのような、臨床心理士としての独自の見解と倫理から意見を具申し、また、そうすることを求められてきた主体的な役割から、上司からの指示を受け、実行するシステムの一部になる、ということになるでしょう。この変換は、臨床心理士としての独自の援助観、理念・パラダイムに基づいた役割の放棄が求められ、医事法制や福祉行政の役割規定の中での、業務命令を背負った実行者に変わる、と言うこともできるでしょう。

もちろん、われわれの前にある対人援助のどんな場面でも、そこの組織・システムは人同士が創り出し維持するものですから、互いの関係によって成り立つそうした場は、スタッフ間の適切な合意によって、ベターな援助を目指す、という点に変わりはありません。

そして、特に医療領域では、これまで心理職の位置づけがないゆえに、雇用する側としては採用の根拠がなく、また対応する給与表も存在しないゆえに雇用困難だった職場に、公認心理師として配置することが可能になりました。業務内容の規定がないことが、かえって幸いし、配置しやすいという面もあるのでしょうか、早くも眼科や小児科領域では公認心理師を採用したい、あるいは採用に向けて検討をしている、といった動きがあると聞いています。前のニューレターで紹介したように、アディクション臨床でも活躍の余地が広がっていると思われます。

僕自身も、非常勤ながら医療領域でも30年あまり働いてきましたので、無番地の登録から、ようやく公式の番地を与えられ、自分たちの存在が日の目を見るところまで来た、という感慨はあります。

これから展開可能な対人援助の場では、各人のこれまでの心理士・援助者としての経験を、その場で求められる入れ物に入れ直せば、活動は可能になるでしょう。ただ、これまでの雇用より給与や報酬の単価が高くなる保証はありませんが。そして、この流れ、この形(ダブル資格の場合、雇用関係では臨床心理士資格は公認心理師の名称によって上書きされ、消えること)をよしとするかどうかは、あなた次第、ということになります。

では、これからのわれわれ臨床心理士のことについて。ご存知かもしれませんが、東京臨床心理士会はその名前を東京公認心理師協会と変更し、東京臨床心理士会の名前は消滅しました。そして、公認心理師と臨床心理士に共通の倫理綱領を創ろうとしてしましたが、それは不可能というところに行きついたとのこと。考えてみれば、公認心理師法に則った倫理規定と、資格を更新し続ける民間資格に共通の倫理規定は存在しないはず。また、国家資格者とそうでない人が両方とも所属する「公認心理師協会」なんてありえない!という批判もあります。言われてみればその通り。さあ、この点はどうするのでしょうね。どうなるのでしょうか。

しかし、臨床心理士が臨床心理士であることには、どこにも矛盾はありません。となると、ダブル資格者はどこにいるのか?臨床心理士会の中だけにいて、世間に出ると公認心理師に変身するということになるようです。そのことに何か問題を感じますか?感じるとすると、それは誰の、どのような問題ということになるのですかね。この点は、私たち自身のこととして、じっくり睨んでおく必要があるようです。

このページのトップへ戻る▲