会長メッセージ

「出版臨床心理学と技術伝達主義  前篇」

会 長  羽 下 大 信



 文字にされることと実行されること
  文字は、かつては為政者、支配者、(宗教や思想)指導者の占有物であった。彼ら自らはそれに直接タッチせず、文書の最後に署名をすることで、その支配を誇示した。文字を支配する人と、支配者のmissionを文書にする人と、それを実行する人は別々にいた。責 任に関してもそれぞれに別で、文書を書いた人は、自らが書いた文書に対してのみ責任を問われ、それをもとに実行されたことには、責任はなかった(組織の中では、これは今もそうである)。
  現代のわれわれは、いつの場合でも自らを自分で支配することと、そのこと全体に責任を負うことを求められている。たとえば、ある人が自らの心理臨床の実践や理論研究をもとに論文や本を書いたとする。そこでの実践でその人が実行し、あるいは理論を構想したこと、また、それを文に書いたこと、そして出版したという社会的な行為に対して、その人は全ての責任を負う。したがって、いわゆるタレント本も、「あれはライターが書いた」と釈明はされない。
  われわれの心理臨床の世界を例に取ってみる。ひとりの臨床家が自らのアイデアや実践を本にしようとして構想したとする。そしてさらに、その構想に沿って、文を書き連ねたとする。この場合、著者としては、自らの実践の中で生起したことについての理解やその記録と、自らがなした説明の全体とには、大幅なズレがあるとは思っていない。両者はほぼ一体か、少なくとも、自らのアイデア・実践は最大限、伝えてくれるだろうと期待している。
  そして読み手の側も、文には著者のアイデアや実践の重要なところが十分に反映されているはずだとの前提に立つ。したがって、「読めばわかる」ということになる。
  が、読み手になろうとすること自体が、すでにもう、文字という刺激を得て、大いなる想像を巡らすための、いわば、自己催眠状態とも言える準備になっている。つまり読み手は、自由で大胆な想像をもって、文に臨む。が、このとき、著者の描く実践に重なる経験が読み手の側にもあるなら、この経験と想像とは、ぶつかることになるだろう。ここに、自分の実践という経験は鍛えられるチャンスがある。あるいはまた、本や論文のなかの「その文」が、自分の経験のはるか前方を指し示していると感じ取ること。そうした瞬間があるなら、その本は読み手にとって他には代え難いものになるだろう。
  文字にすることは、一種の変換である。実践そのものを文字にする、ということは本来できない。たとえば、心理療法1時間のセッションの中でおきたことの全部を文字に記録する、ということを想像してみると、交換の不可能性は容易に了解しうる。が、文字は読み手の想像を刺激する。このとき、そこに書かれた実践や理論に関して、それまでに経験もなく、またそこに提示されているアイデアの中に踏み込み、あるいはその辺縁で思いを巡らせたりすることがなければ、そこで展開される想像はより大胆、自由になる。ぶつかる相手がないからである。
  ある勉強熱心な院生が、僕にこう言った。「本に書いてあるとおりにやりました。でも、そのようになりませんでした。どこがおかしいんでしょう?」と。僕の方は、「書いてあるとおりに・・って、いったいどんなふうにしたことを言うの?」と心で叫んでいたけれど、「ウン、まあ、むずかしいね」と言ってしまった。きっと彼は、ボケたヤツ!と思っただろうな。(つづく)